アールブリアンは赤坂にオフィスを構えています。
アールブリアンの社員は赤坂の歴史を知っているかは定かではありませんが、
アールブリアンのある赤坂の歴史を調べてみました。
赤坂には数えれば25以上もの坂があります。そして、坂の上と坂の下が赤坂の街の雰囲気を二分しています。坂の上は大きな高級マンションなどが建ち並ぶ高級住宅街、
坂の下は飲食店を中心とした商店街とビジネス街となっています。
大昔、赤坂には海が奥深く入り込み、坂の下は海でした。長い間に海が徐々に引いて陸地となり、低地は耕作地となり高台とつなぐ坂道ができて、現在の街の原形ができました。
「赤坂」の地名の由来は、その昔、現在の赤坂離宮(旧・紀伊徳川屋敷跡)のある高台で、茜が多く取れたことから茜山と呼ばれ、その坂を茜坂(赤根坂)と言っていました。
その「あかねさか」の音が詰まって「あかさか」になり、付近一帯を赤坂と呼ぶようになったと言われています。
赤坂の本格的な始まりは徳川家康の入府に始まります。江戸城の造営に際し、江戸城の西に位置する赤坂台地に紀伊徳川家(現在の赤坂離宮・迎賓館周辺)をはじめ大身の旗本や大名を配置して江戸城西の守りを固めました。
低地を流れる川は江戸城外堀として整備し、溜池は一時、江戸の水瓶として利用されていました。その名残が現在も「溜池」の地名として残っています。江戸城入り口に赤坂見附門が置かれ、門を出たすぐの坂下には幕下藩士、
城内で働く職人方や庶民が住み、坂の上の高台は大名や旗本の屋敷町となって、その形が現在にも受け継がれています。
勝海舟は20代から生涯を終える77歳まで55年も赤坂に住みました。江戸末期から明治時代にかけて、地位が上がるに従って、坂下から坂上へと住居を3度変え、赤坂氷川下の家では坂本龍馬との出会いがあり、
この出会いが龍馬を明治維新へ奔走させるきっかけとなったのです。
アールブリアンの社員に歴女がいるかは定かではありません。 |